浅間山、天明の大噴火

火砕流に巻き込まれた犠牲者の悶絶死した姿の石膏像が存在します。

舞台は群馬県と長野県の境に位置する浅間山。
噴火の最古の記録は685年で日本書紀に記されています(山の名前ははっきり明記されていないので浅間山ではない可能性もある)。その後3回程噴火を繰り返し、1517年〜1532年、1596年〜1609年に烈しい噴火を起こします。
そして1783年の噴火まで燻り続け、旧暦4月9日に爆発、噴火が起こり一帯に灰が降り始めます。
7月に入り、軽井沢から東の空は真っ暗でその5日後には真っ赤な石が落ちてきて家々が燃えたり、重さで潰れていきました。人々はその日の朝から逃げられるものは南の方へ逃げ始めたといいます。
7日には烈しさが増し、雷鳴が轟き(通常の雷とは違い電流が強い)16時頃に火口から火山弾と火山灰が一団となった火砕流が北西、北東地域に流れでます。
8日になり夜が明けると巨大な火山弾が混ざった火砕流が山腹に沿い流れ、飲み込まれた集落は埋没してしまい、地域住民597人中466人が死亡しました。
火砕流は吾妻川に流れ利根川と合流、被害は前橋から玉村町に及びました。
この時の被害は群馬県内1400人以上、全体では1624人。最近の調査で火山灰は栃木県鬼怒川、茨城県霞ヶ浦あたりまで降っていたと確認されています。

7、8日の本格的な大噴火で逃げ遅れた人たちの型が残っています。灰の中で人型の空洞が存在していたのです。観音堂の階段だったか、逃げる途中で転んでし まい、階段に転がったまま手を差し伸べあう2人の遺体や逃げ遅れた人の悲痛な叫び声が聞こえそうな型が取られ残されています。
この前年あたりから天明の大飢饉が始まっており、噴火で土地が荒れる前から不作が続いていました。灰の中から取れた型の中に、いびつで食べるところの見当たらないような惨めな芋の石膏もあり、当時の厳しい状況を今に伝えています。
飢饉が始まる頃から冷夏、アイスランドのラキ山の巨大噴火、暖冬の年などがあり、当時の人々は生きながらにして地獄を見たことでしょう。

ReXg

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>