新聞と乃木大将の殉死

かつて有名であった乃木希典ですが、彼を知らない人は沢山いるでしょう。
彼は日露戦争の英雄とされています。

乃木希典は嘉永2(1849)年に生まれ、長府藩の藩士、軍人、教育者。
日露戦争(1904)において、退役していた乃木は明治天皇の推挙もあり参戦。
日清戦争で旅順を1日で陥落させた(真実は敵兵の逃亡による開城)実績を買われ、ロシア軍の中国拠点の旅順を落とすことが任務でした。
結果、4カ月以上も費やしました(10万人を投入。戦死1万5千人。負傷者4万5千人)が「難攻不落」の要塞、旅順を攻略(1905)した司令官として賛美されるようになります(難攻不落だったのは作戦の甘さが原因だったのではないかと思われる)。乃木は日露戦争後も人気があり、言わば時の人。
もちろんそれらを報じたのは新聞各紙でした。

旅順攻略から7年後、明治天皇が崩御された翌日に乃木は写真家を自宅へ呼び写真を撮らせています。玄関前で「肖像写真」を2枚、その他に1枚、新聞を読む自身と妻を撮っています。3枚目は自身の発案で、勿論正装で撮っています。
そしてこの日、乃木は妻を伴い宮中に参内し明治天皇の霊柩に永訣した後、天皇の霊柩が宮城を出る合図(20時過ぎ)の大砲の音とともに割腹、殉死をします。享年62歳。
新聞を読む姿は自然なことですし、それを記録することになんら不思議はありませんが、彼が手にしている新聞は明治天皇崩御の記事で埋め尽くされていて、翌日は乃木自身の殉死の記事が載るのです。

現在の主だった新聞社は明治10年代に作られます。読みやすい内容で多くの読者を獲得、メディアとしての地位を確立していきます。情報の媒体が乱立する現代とは違い、新聞の影響力は絶大なものでした。
160年以上前に生まれた人ですから我々とは価値観が全く違いますが、乃木が死を念頭に入れて最後に撮った写真は新聞を読む姿。新聞という近代的なアイテムがさらに異様な違和感を醸し出しているように思えます。
彼の心情はもはや語られることはありません。

新聞離れが叫ばれて久しい今日、どう感じますでしょうか…。

ReXg

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